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大阪高等裁判所 昭和63年(ネ)2127号 判決

主文

一  原判決を次のとおり変更する。

二  被控訴人の控訴人に対する、控訴人・被控訴人間の大阪地方裁判所昭和六二年(ワ)第一九五四号損害賠償請求事件につき昭和六二年八月二〇日成立した和解調書に基づく強制執行は許されない。

三  訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。

四  本件につき大阪地方裁判所が昭和六二年一〇月二七日なした強制執行停止決定はこれを認可する。

五  本件判決は前項に限り、仮に執行することができる。

事実

第一  当事者の申立

一  控訴人

主文第一ないし第三項と同旨。

二  被控訴人

1  本件控訴を棄却する。

2  控訴費用は控訴人の負担とする。

第二  当事者の主張

当事者双方の主張は、次のとおり付加するほか原判決事実摘示のとおりであるから、これをここに引用する(ただし、原判決五枚目裏三行目の「被告(本案事件)」を「被控訴人(本案事件の原告)」に、同裏三行目から四行目にかけて「全貌を知っており、被告主張の」を「全貌を知っていたものであるが、控訴人(本案事件の被告)主張の」に訂正する。)。

(控訴人)

1  被控訴人は、本案事件(被控訴人を原告、控訴人を被告とする大阪地方裁判所昭和六二年(ワ)第一九五四号損害賠償請求事件)において控訴人提出にかかる答弁書記載の既払額九六万二三〇〇円の外に被控訴人が訴外安田火災海上保険株式会社(以下「訴外保険会社」という。)から直接受領した自賠責保険金二三万〇二〇九円があること、すなわち、既払額が右の合計一一九万二五〇九円(なお、控訴人提出の平成元年一月二六日付準備書面には一一九万二五九〇円と記載されているが、右は一一九万二五〇九円の誤記であると認められる。)であることを本件和解前に知っていたものである。しかるに、被控訴人は、控訴人側が既払額等につき(被控訴人において訴外保険会社に対し被害者直接請求をしていた事実を控訴人が知らなかったために)後記のとおり錯誤に陥っていた事実を認識していたのに、これを奇貨として、控訴人主張の既払額九六万二三〇〇円を争うことなく本件和解に望んだのである。

ところで、本件和解の席上、控訴人側としては、損害賠償義務はないと考えていたが、未払治療費二六万六六六〇円が請求もれであることを知ったので(右未払治療費は被控訴人側においてその主張・立証を失念していたので、控訴人側が右未払治療費の請求もれを指摘したものである。)、自賠責保険の残金を有効に活用して右未払治療費の支払をすることを裁判官に申し述べたものである。この際、控訴人側は、真実は既払額の合計が一一九万二五〇九円であり自賠責保険の残金はなかったのに、既払額は九六万二三〇〇円であって、自賠責保険の残金はあり、これをもって和解金の支払をなしうるとの錯誤に陥っていたので本件和解に応じたものである(既払額によってすでに損害賠償すべき金額がゼロになっておれば、控訴人において本件和解に応じるはずはなかったものである。)。

右の事実によれば、既払額の多寡は本件和解の重要な前提事実となっていたことが明らかであるから、これを認めず控訴人の錯誤の主張を排斥した原判決は事実を誤認している。

2  仮に錯誤の主張が認められないとしても、前記のような本件事実関係に照らせば、本件和解の効力は信義則上認められるべきではない。

(被控訴人)

控訴人の右主張はすべて争う。

第三 証拠〈省略〉

理由

一  本案事件につき昭和六二年八月二〇日大阪地方裁判所において本件和解が成立し、本件和解調書には「被告(本件の控訴人。以下「控訴人」という。)は原告(本件の被控訴人、以下「被控訴人」という。)に対し、本件損害賠償として既払額(金九六万二三〇〇円)を除き、金二六万六六六〇円の支払義務があることを認め、これを昭和六二年九月一〇日限り被控訴人名義口座(三和銀行四貫島支店総合口座二一四六〇九号)へ振込んで支払う。」との記載があることは、当事者間に争いがない。

二1  控訴人は、本件和解のうち、損害賠償金二六万六六六〇円の支払義務の確認とその振込支払をなすべき条項中、金二三万〇二〇九円の部分が要素の錯誤により無効である旨主張するので、これにつき以下検討する。

2  〈証拠〉によれば、次の事実が認められ、この認定を左右するに足りる証拠はない。

(一)  被控訴人は、昭和六二年三月三日、大阪地方裁判所に対し、控訴人を相手方として、同六〇年九月一二日に発生した交通事故に基づく損害賠償請求の訴え(本案事件)を提起した。右訴状の記載によれば、損害賠償の内訳は、文書料二〇〇〇円、入院雑費一七万四〇〇〇円、休業損害二八三万一四八六円、入通院慰藉料二〇〇万円、後遺障害慰藉料六七万五〇〇〇円、逸失利益二八万三八〇五円、弁護士費用五〇万円であり、被控訴人は控訴人に対し、右損害額の合計六四六万六二九一円から損益相殺分八二万二二〇九円を控除した残金五六四万四〇八二円及びこれに対する昭和六〇年九月一三日から支払ずみまで年五分の割合による金員の支払を求める、というものである。ところで、右損益相殺分八二万二二〇九円の内訳は、被控訴人の本件事件(本訴)における主張によれば昭和六二年二月一七日に訴外保険会社から受領した自賠責保険金二三万〇二〇九円及び控訴人側から、支払を受けた五九万二〇〇〇円であるというのであり、いずれも休業損害についての支払分であるところ、前記訴状には、損益相殺分として八二万二二〇九円の金額の記載があるのみでその内訳の記載はなく、また、被控訴人は、本案事件においては、控訴人に対し、右内訳の説明をしなかった。

(二)  被控訴人からの右提起に対し、控訴人は、「被控訴人の請求を棄却する。」、「控訴人は九六万二三〇〇円を支払ずみである。その内訳は、イ、治療費 四二万四四〇〇円、ロ、装具代 一万六二〇〇円、ハ、休業損害 五二万一七〇〇円である。」旨及び「控訴人の過失及び被控訴人主張の損害はいずれも否認する。被控訴人には八割以上の過失がある。」旨を記載した答弁書を提出した。ところで、被控訴人は、本件和解前に控訴人側から答弁書記載の既払額合計九六万二三〇〇円(このうち答弁書記載の「ハ、休業損害 五二万一七〇〇円」は、被控訴人の作成にかかる休業損害の領収書〈控訴人の勤務先の訴外栄光タクシー株式会社宛〉である甲第八ないし第一〇号証記載の各金員の合計額と一致するから、被控訴人は、この休業損害の支払があったことは控訴人からその旨の証拠の提出がなくとも当然知っていたものと思われる。)の支払を受けていた外に昭和六二年二月一七日訴外保険会社から自賠責保険金二三万〇二〇九円を休業損害分として直接受領していたので、既払額の合計は一一九万二五〇九円となる(なお、訴外保険会社との間で自賠責保険契約を締結していたのは控訴人の使用者である訴外栄光タクシー株式会社であって、控訴人ではないと推認される。)。

(三)  本案事件の第一回口頭弁論期日において、被控訴人は前記訴状を、控訴人は前記答弁書をそれぞれ陳述したところ、裁判官から和解勧告があり、その後口頭弁論兼和解期日(以下「和解期日」という。)が開かれた。ところで、控訴人は、本件交通事故の態様からみて大幅な過失相殺がされるべきであり、また被控訴人には他病の疑いもあり同人の損害と本件交通事故との間には因果関係がないと考えていたので、既払額九六万二三〇〇円の外に損害賠償をすべき義務はないとして当初和解に応ずる意思はなかった。ところが、控訴人側で治療費を調べたところ、未払分の治療費として二六万六六六〇円があることが判明したので、訴外栄光タクシー株式会社に勤務していた控訴人は、人を乗せて営利を上げるというタクシーの業務から考えて未払治療費を残しておくことはよくないと思い、更に、自賠責保険の残りの支払枠が約二三万円余り、(以下「自賠責保険の残金」という。)あるから、右枠を使って右未払治療費を支払ってあげればよいと思って、和解の席上、裁判官に対し、自賠責保険の残金があるので右未払治療費二六万六六六〇円の限度で和解に応じてもよい旨を述べた。右自賠責保険の残金がある旨の話が裁判官から被控訴人側に伝えられたか否かは不明であるが、控訴人としては、被控訴人が訴外保険会社から自賠責保険金額二三万〇二〇九円を既に直接受領していたこと及びそのため自賠責保険の残金がなく、既払額の合計が前記(二)のとおり一一九万二五〇九円であったことを事前に知っておれば、本件和解のような内容の和解を成立させる意思は全くなかった。

(四)  和解の席上、被控訴人は控訴人主張の既払額九六万二三〇〇円を特段争うことなく、控訴人が被控訴人に対し未払治療費二六万六六六〇円を支払うということで了解したので、昭和六二年八月二〇日控訴人・被控訴人間に本件和解が成立した。ところで、本件和解が成立した数日後に控訴人は、調査の結果、本件和解成立前に前記のとおり被控訴人が控訴人主張の既払額九六万二三〇〇円の外に訴外保険会社から休業損害分として二三万〇二〇九円を直接受領していた事実を初めて知った。そこで、控訴人は、昭和六二年九月三日、本件和解調書記載の損害賠償金二六万六六六〇円から被控訴人の右受領額二三万〇二〇九円を控除した残金三万六四五一円のみを右和解調書記載の被控訴人名義の口座へ振込んで支払った(控訴人が右の金員を振込んで支払った事実は、当事者間に争いがない。)。

3  右認定事実に基づき検討するのに、真実は、本件和解前に被控訴人が既払額九六万二三〇〇円の外に訴外保険会社から休業損害分として二三万〇二〇九円を受領していたため、自賠責保険の残金はなく(したがって、控訴人が自賠責保険の残金を使用して支払うということはできない状況であった。)、既払額の合計は一一九万二五〇九円であったのに、控訴人は、本件和解当時、既払額は九六万二三〇〇円であって自賠責保険の残金はあり、これをもって本件和解で決められた損害賠償金二六万六六六〇円(以下「本件和解金」という。)の支払に充てることができるものと考えていたものであるから、右の点につき控訴人には錯誤があったものというべきである。

そこで次に、この錯誤が民法九五条にいう要素の錯誤に該当するか否かを検討するのに、控訴人が本件和解金の支払につき自賠責保険の残金を充てることができると思っていた点の錯誤は単なる動機の錯誤にすぎないものというべきところ、この動機が控訴人から被控訴人に対し表示されていたとのことは本件証拠上認められないので、右の点の錯誤の主張は採るを得ない。

しかし、既払額がいくらであるかという点の錯誤は、次に述べるとおり要素の錯誤に該当するものというべきである。すなわち、控訴人は本件和解をするにつき既払額が九六万二三〇〇円であることを前提としていたこと(このことは前記認定の本件事実関係から明らかである。)、被控訴人はその提出にかかる訴状においては損益相殺分を八二万二二〇九円と記載し第一回口頭弁論期日において右訴状を陳述していたものの、本件和解成立の際には控訴人主張の既払額九六万二三〇〇円を特段争っていなかったこと及び本件和解調書上既払額がわざわざ九六万二三〇〇円として明記されていることを勘案すれば、既払額の多寡は本件和解において重要な前提事実になっていたものというべく、この点に関する錯誤は要素の錯誤に該当するものと解すべきである。

(なお、弁済額がいくらであるかという点は本案事件の訴訟において控訴人の主張・立証すべき事項ではあるが、本件和解は未だ証拠調べをしていない段階での和解であったところ被控訴人は本件和解成立の際には控訴人主張の既払額を特段争っていなかったこと、訴外保険会社から自賠責保険金二三万〇二〇九円を被控訴人が直接受領していたことを自賠責保険の契約者ではない控訴人が本件和解前に知らなかったとしてもさして責められるべきことではないこと及び被控訴人は控訴人が本案事件の答弁書において主張していた既払の休業損害分五二万一七〇〇円(これについては被控訴人は訴外栄光タクシー株式会社宛の領収書を作成している。)の外に訴外保険会社から更に休業損害分として二三万〇二〇九円を直接受領していたものであるところ、控訴人主張の既払額九六万二三〇〇円〈なお、この額から前記の五二万一七〇〇円を控除した残余の部分が治療費及び装具代であることは控訴人提出の答弁書の記載から明らかであり、被控訴人は当時右の点を当然了知していたと思われる。〉には前記自賠責保険金「二三万〇二〇九円」のうちの「九円」という端数もないので、控訴人が右二三万〇二〇九円の受領の件に気付いていないことを被控訴人は本件和解成立当時知っていたものと思われることなどに照らせば、控訴人が既払額につき前記のとおり錯誤に陥ったことにつき控訴人には重大な過失はないというべきである。)

そうだとすれば、本件和解調書上の本件和解金二六万六六六〇円の支払義務のうち二三万〇二〇九円の部分は要素の錯誤により無効であるといわざるを得ない

(なお、被控訴人は、既払額が九六万二三〇〇円であるとして和解が成立した以上後日それを上回る既払額があったことを主張して右和解の効力を争うことは既判力の関係で許されない旨の主張をするが、裁判上の和解は、その効力こそ確定判決と同視されるものの、その実体は私法上の契約たる面も有し、その契約に錯誤等の瑕疵があるときは無効を来たす場合もあり既判力を有しないというべきであるから、被控訴人の右主張は採るを得ない。)。そして、本件和解金二六万六六六〇円から右二三万〇二〇九円を控除した残金三万六四五一円については、控訴人がすでに被控訴人に対しその支払を了していることは、前記2(四)で認定したとおりである。

三  以上によれば、控訴人には、本件和解調書に基づく支払義務はないことが明らかであるから、右和解調書に基づく強制執行の不許を求める控訴人の本訴請求は理由がある。

よって、右と異なる趣旨の原判決は変更を免れず、控訴人の本訴請求を認容し、訴訟費用の負担につき民訴法九六条、八九条を、強制執行停止決定の認可及びその仮執行宣言につき民事執行法三七条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 今富 滋 裁判官 妹尾圭策 裁判官 中田昭孝)

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